狛犬の鳴き声

近江八幡のまちづくりに取り組む中で、考えたこと、学んだこと、もやもやを記す内訟録。

一人ひとりが自覚することからはじまる/『ニッポン景観論』

◆原点を見つめ直す、明快な景観論

アレックス・カー氏の新しい著書。

先日ヒアリングに足を運んでいただいた、慶応大学の社会人学生からの情報提供で早速拝読。

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書籍は中身もカラーでありビジュアルが多く、パワーポイントでプレゼンを聞いているような感覚でサクッと読み進めることができる。

 

 

○「犬馬難 鬼魅易(ケンバムズカシ キミヤスシ)」P102〜

昔、中国の皇帝が宮中の絵師に、「何が描きやすいか」と聞いたところ、「犬や馬は描きにくい、鬼は描きやすい」と答えた。 (『韓非子』の中のエピソード)

 

「椿一輪を活けることはなかなかできないことですが、モンスターのような“生け花”はどの家庭夫人でも簡単に作れますよ」 (白洲正子

 

◆改めて、自分の街を見つめる

事務所のある伝建地区を眺めると、まさに〈モンスターのような“生け花”〉のような景観である。

昔ながらの瓦屋根のファサードが立ち並びつつも、道路には駐車場から溢れる車の数々、空中を支配する電線と電柱が乱立し、通りの向こう側に映る里山には緑頭に剃り込みを入れたような剥き出しのロープウェイ。どこに働きかけたら治るのだろうか。。

 

大学時代の建築学科での設計演習は、あくまでアンビルドの提案であり、思考トレーニングの機会である。建築ガイドブックに紹介される全国の建物を見て、近代建築を見てまわったときに「こんなものを作らないといけないのか」とスケールの大きさに息を飲むか、記念碑のような異質な建築に思考が停止してしまう。結果、思考実験はアンビルドで展開するもので、現実に立つものには施主や立地、環境、時間軸などあらゆる方面から検証し、血の滲むような思い出やっと形にしなければいいものは生まれないことを知った。

 

本書を通じて、改めてどこが醜いか、何を批判の対象とするかは誰とでもすぐに共有できる。正解はとてもシンプルなように感じる。だが実際に自分の仕事で判断を求められると難しい問題だ。古い状態が単純にいいという懐古主義に寄りかかるのでは、地域の発展は望めない。常にその時代、その社会に向き合った解答を模索する努力が必要だ。

 

本書の中でも、ハードを変えることは簡単だが、費用対効果がみえにくい部分に力を入れる必要があることの大切さに触れている。そして、ハード事業よりも、ハードを守り育てるソフト事業の大切さにも。

 

ソフトとは、突き詰めると人である。人を育て、地域住民と地域を設計しデザインしていく取り組みを実践すること、地域の内発的発展を実践していきたいと思う。

 

ニッポン景観論 (集英社新書)

ニッポン景観論 (集英社新書)

 

 

世界の戦争博物館から見る、国家のプレゼンとハコモノ経営/『誰も戦争を教えられない』

■行こうと思わない博物館!?

戦争博物館というのは、すぐれて政治的な場所である。なぜならば、戦争が国家間で行われる外交手段の一つであるように、そこで起こったことの認定もまた、一つの外交であるからだ。特に国家が運営に関わる戦争博物館では、その国家が戦争をどのように認定しているのかがわかりやすく可視化される。」P30〜

「「新しい神」や「新しい神話」を、視覚的にわかりやすくプレゼンテーションすることが期待されたのが博物館である。公共ミュージアムは、国家的なアイデンティティを創出することを目的として、世界の近代国家に整備されていった。」P31〜

僕にとって博物館と聞いてまず思い浮かべるところ、やはり東京国立博物館だ。

近代建築としての空間の面白さがきっかけではあったが、内部の各常設展を見て回るだけでもお腹がいっぱいになる充実度。知識が大してなくとも、展示品一つ一つのエネルギーを感じる場だと感じている。

 

ちなみに、戦争博物館は国内だと長崎、海外だとベトナムくらいしか訪れたことがない。これからも積極的に訪れることはなかったと思うが、この本を読んだ今、博物館に対する見方が変わったのは間違いない。

 

 

■世界の戦争博物館、そして日本、そして地方の博物館モドキ

「僕たちは、戦争を知らない。
そこから始めていくしかない。
背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な創造力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく解釈し直すのでもない。
戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。
そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい。」P348〜

本の中で、アメリカの戦争記念館に始まり、ヨーロッパ、そして韓国や中国と様々な戦争博物館への訪問体験が綴られており、各施設の印象が全く異なることが面白い。

そして、各国がそれぞれ「あの戦争」をどう捉え、どう国民へ解釈し提示しているのか。あまりにも各国で歴史の捉え方に隔たりを感じるが、しかし次世代への継承という面では、世界中でハコモノでの伝承の限界が垣間見える。

 

日本には博物館は5000以上あるが、いわゆる法にのっとった本物の博物館は決して多くない。博物館モドキが溢れており、各地ではいわゆるまちづくりをする民間組織がそれらモドキの運営に四苦八苦しているのが実情ではないだろうか。

モドキだろうが、その地域にとって「博物館」は地域の歴史や風土、文化を語る重要な場であることは間違いない。どう活かし、どう変化し、どう運営するのか。

 

流行りで作られたハコモノは、理念や思想といった本質的な見直しが問われている時期だ。観光施設として、集客施設として、市民に開かれた施設として、人を集め発信力のあるまちづくりの舞台として可能性があるのが、フットワークの軽そうな博物館モドキではないだろうか。

 

誰も戦争を教えられない (講談社+α文庫)
 

 

行政と民間の本気の蓄積/『にぎわいの場 富山グランドプラザ—稼働率100%の公共空間のつくり方』

■ロマンではなく、前かがみな想いが重なる協働

【はじめに】 P5〜
・ポール・ズッカー著書『都市と広場』の冒頭
「広場は、疑いもなく、絵画、彫刻、あるいは個々の建築作品と同様、「芸術」である。広場の解放された空間、周囲の建造物、その上に広がる空が織りなす独特な関係は、他のいかなる芸術作品から受ける感動にも劣らない本物の感動を味わわせてくれる」

ヨーゼフ・ボイス
「どんな人間も芸術家である(中略)どんな人間も社会の変革のために働ける(中略)誰もが、自分自身の考えによって、本当の意味で自らの創造力を共同体に提供することができるのです。」

著者が冒頭で引用する2人の言葉。

広場に対する眼差し、創造的な場にしようとする志しを感じるコトバだ。

 

「広場」はただ都市の余白として用意するだけでは何も生まれない。

人々を魅きつけ、その地域周辺の人々が利用する。そこはあかの他人が集まるというよりも、知っている顔の人たちが利用する場。程よい距離感と自分たちが居心地のいい場。

このような何気ない広場のイメージは、高度に設計されつつ、実践を通した試行錯誤の蓄積から生まれる日常の風景、つまり作品である。

 

「中活はどこも成功していない」と年配の方々はよく知ったようにものをいうのを耳にする。だが、確実に新しい世代が地方で魅力ある取り組みを展開している。他人のコトバをそのまま鵜呑みにしてはいけないな。

 

にぎわいの場 富山グランドプラザ: 稼働率100%の公共空間のつくり方
 

 

誰かのためになること、助けになることを幸せだと思う/『SQ “かかわり”の知能指数』

■これからの社会を考える鍵「SQ」

◎誰もが手助けを求めている P245〜

社会学というモノは、伝統的な農村社会で持っていたような「密な絆」というのを失ってしまったけれども、その代わりに他人と協力して、広い範囲でいろんな、これまではできなかったたくさんの仕事を分業しながら協力していくことができるような、そういう社会を理想化して考えてきました。
僕がSQという概念で述べているのも、基本的には、この社会学の100年ぐらいの歴史の中で挙げられている、そうした発想とそんなに変わりはありません。

ただ日本の場合は、自分たちの社会が、黄金時代につくられた核家族世帯と、その核家族世帯が市場を通じて様々な困難を解決していくような、そういう環境を理想とする発想から依然として出られていない。社会学が100年前から考えてきたような、多様な人々の多様な役割に基づいた協力関係、それも身内意識による、仲の良い間柄の協力関係ではなくて、「袖振り合うも多生の縁」程度の人たちと、少しずつ手を貸し合って、自分のできる範囲で貢献をしていくような、そういう関係を築いていく必要がある。

 

本書の中で、アンケート調査結果から「できる範囲での手助け」が幸せの秘訣という結果が出ている。自分だけしか考えない自己中心的なことよりも、他者貢献の方が幸福度が高いということは理解してい。しかしその範囲は、地球規模や世界というような広範なものがより良いというわけでなく、適切な手の届く範囲というのが幸福の秘訣とのことだ。

SQという概念で提案するこれからの社会の関係性の価値観として、「袖振り合うも多生の縁」という、密な関係性の少し外側だが、顔は見たことがある地域の人というような関係性に注目している。

 

こういう感覚が、僕には非常にしっくりとくる。

もともと、新興住宅地で生まれ育ち、土着的な血縁の近い地縁があるような地域ではなく、しかし適度な田舎としての顔の見える関係性の中で生活を送る。

もしも緊急事態が起きたら、すぐに声をかけられる関係性。それくらいがちょうど良い距離間だと感じている。

今後、地方への移住を促す際に、このような適度な距離を設けた地域ネットワーク作りが必要だと改めて確認できた。

 

 

もっとも頼りになる資質は「人柄の良さ」/『評価と贈与の経済学』

■イワシ化する社会

岡田「イワシって小さい魚だから、普段は巨大な群れになって泳いでいる。どこにも中心がないんだけども、うまくまとまっている。自由に泳いでいる。これは見事に、いまの日本人なのではないかと。そのときの流行りとか、その場限りの流れだけがあって、価値の中心みたいなものがなくなっているんじゃないかなと思いますね。」p24

そういえば、スイミーってイワシなのかな。

 

合気道と掃除。そして人柄

岡田斗司夫氏の「評価経済社会」が本棚で積読状態だが、たまたま書店で見つけた内田樹先生との対談本から読む。

やはり、内田先生おもしろい。合気道と掃除への考察が印象的。

掃除は昔から好きだが、日々の生活の中で繰り返す無意味性に対し、やはりおろそかになることもある。これからは宇宙を感じる壮大な流れを掃除で感じよう。

内田「(中略)格闘技って努力目標が世界ランキング何位とか、勝率がいくらだとか、年俸がいくらだとか、そういう数値ではっきり計量される単純な世界になってるでしょう。でも、本来の武道は強弱勝敗巧拙は論じない。 そうじゃなくて、ひとりひとりのパーソナルな身体的な潜在能力をどこまで開発するかを研究する。(中略)努力と報酬の相関関係が可視化されていないという点でゆくと、合気道は「欲望の尻尾」が見えない武道だね。」p40

 

内田「(中略)掃除やってると、人間の営みの根源的な無意味性に気がつくんですよ。『シジフォスの神話』とおなじで、掃除って、やってもやっても終わらない。せっかくきれいにしても、たちまち汚れてしまう。創り上げたものが、たちまち灰燼に帰す。だから掃除していると、「なんて無意味なことやってんだろう、オレらは」っていう気分になる。それがたいせつなんですよ。「なんだよ、掃除ってエンドレスじゃん」て気がつくことが。そのとき初めて、意味がないように見えるものの中に意味がある、はかなく移ろいやすいもののうちに命の本質が宿っているということがわかる。
(中略)ぼくが知る限り、掃除ほど効果的に人間の宿命や世界のありように気づかせる方法ってないような気がする。」

 

終盤、「クラ交易」の話から、「最後は人柄」の重要性について議論が展開する。クラ交易における最も高いポジションは、つまり多くの贈与を受け、与える人。

 

評価と贈与の経済学について、二人の対話があちこちに展開しつつも、最後は同じ方向を向いていく。思考のアプローチがまったく違う二人だと思うが、新しい経済に対する試みと考えは同じ方向にいくということが、面白く、そして自分の考えの再確認となった。

 

ひとも地域も何を求めるか/『幸せのメカニズム—実践・幸福学入門』

■便利・快適志向から幸福志向へ

「これまでの街づくりは、便利さ、快適さ、安心・安全といった、人々の基本的な欲求を満たすことに重点が置かれ過ぎていて、幸せの四つの因子を育むようには計画されていなかった。だから、都会では、隣の住民が何をしているかわからないし、電車で隣り合った人とは目も合わせないような、「幸せ遮断国家」づくりになってしまっていた。人間中心デザインをしていたつもりで、実は人間を無個性化する悪だくみになってしまっていた。もちろん、時代の要請がそうさせた。時代の必然だった。 」p217

 まちづくりの取り組み、特にissue+designの取り組みでは「便利・快適」を目指す地方のまちづくりから、「幸福」を目指す取り組みへと、明確な目標を打ち立て各地でワークショップから実戦へと展開している。

ほとんどのまちづくり関連書籍、取り組みが目指す方向性が、地域の「幸福度」を高めようとする取り組みになっているように感じている。

幸福という指標化しにくい感覚的なものを、今後どう実戦に生かすか、そのヒントが詰まった一冊。

 

■21世紀と江戸時代後期

本書では、「これからの時代は、江戸時代後期のような時代」と指摘している。人口が増えない、GDPも横ばい。しかし、江戸時代後期は多様な文化が栄えた時代だった。

21世紀、2010年以降はどうだろうか。地方では人口減少が加速し、文化の多様性が失われつつある。間違いなく10年後にはかなりの数の無形文化財と呼ばれるような祭礼行事やしきたりは無くなってしまう。

本書でも指針を出しているが、便利や効率を追い求める都市計画やまちづくりは今後目指すべき指針ではない。地域ごとに小さな経済が成立し、住民の幸福度を高めるふるさとづくりが必要である。

各地域の文化の伝承をどうするか、「長男だから残れ」という慣習では若者は説得できない。地元に残った「大先輩」たちと若い世代が一緒に地域をどうするか考え行動する取り組みを仕掛けていきたい。

「協創を目指すことは、幸福を目指すこと」p237

 

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)

 

 

どう生き、どう死ぬか/『生き方―人間として一番大切なこと』『働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」』

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ひと月前に読んだ稲盛本の読み返し。原理原則に立ち返るエッセンスに満ちた本。

■「生き方」と「働き方」

「私の成功に理由を求めるとすれば、たったそれだけのことなのかもしれません。つまり私には才能は不足していたかもしれないが、人間として正しいことを追求するという、単純なしかし力強い指針があったということです。」p17〜

 

「働くということは人間にとって、もっと深遠かつ崇高で、大きな価値と意味を持った行為です。労働には、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性をつくっていくという効果がある。」p21〜

書店でロングセラーの第1位ということで手にした一冊。父も電機メーカーの工場で勤めていたことから、京セラの稲盛氏の働くことへの哲学について興味深く拝読した。

 

 

■どう生き、どう死ぬか

ひと月前に参加したセミナーで、一際鋭い意見を述べられる先生の言葉が頭のなかで反響していた。

  • 自分がどう生き、どう死ぬのか。組織に属する人間ほど深く考えることをやめてしまっている。
  • 資本主義によって、誰かに頼らなくてもお金があれば生きていけるという錯覚が生じている。本来、人間は共依存関係の上で成り立っている。
  • 各個人のつくりたい未来を持ち、どう生きるかを持つことを深く考える必要がある。その結果、必ず共依存にたどり着く。生き方と仕事が自分ごとになる。

上記については、ビジネス本や自己啓発本などをたくさん読んでも答えが出るものではない。むしろ、書籍を手段に自分自身を深く見つめることが必要である。

現時点で、自分自身がどう生き、どう死ぬかという問いに対し、簡潔に答えられるコトバは持てていない。回りくどく、ながながと考えを話すことになってしまう。

 

しかし、地図はないが、コンパスは持っている。服やモノの好み、身につけるもの、生活する空間、どんなライフスタイルを送るのか、そういった一つ一つの選択が自分という生き方を表現していると感じている。

いまいる自分の職場や生活は、いろんな縁があってこそである。野菜を配り合うようなわかりやすい依存関係ではないが、自分を成長させてくれるかけがえのない環境であることは間違いない。

 

 

とにかく、いまいる環境でできることを粛々と実行すること。いま身を置く地域や関係性も含め、環境のなかで自分ができる役割を遂行していきたいと、書籍を通じて再確認した。

 

まちづくり」という仕事は、それ自体ボランティアのニュアンスを含む善行であり、利他行である。なおさら、自己中心的な考えでは上手くいかないことは明白である。

いま、ここで働くということがすでに修行であり、地域への丁稚奉公である。

 

■仕事や人生を実り多きものにしてくれる、正しい「考え方」

最後に、「働き方」の終章から引用。

「仕事や人生を実り多きものにしてくれる、正しい「考え方」」ということで、自分自身と照らし合わせて考えていきたい。

常に前向きで、建設的であること。
肯定的であること。
善意に満ちていること。
思いやりがあって、優しいこと。
真面目で、正直で、謙虚で、努力家であること。
利己的ではなく、強欲ではないこと。
「足るを知る」心を持っていること。
そして、感謝の心を持っていること。

生き方―人間として一番大切なこと

生き方―人間として一番大切なこと

 

 

 

働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」

働き方―「なぜ働くのか」「いかに働くのか」