狛犬の鳴き声

近江八幡のまちづくりに取り組む中で、考えたこと、学んだこと、もやもやを記す内訟録。

世界の戦争博物館から見る、国家のプレゼンとハコモノ経営/『誰も戦争を教えられない』

■行こうと思わない博物館!?

戦争博物館というのは、すぐれて政治的な場所である。なぜならば、戦争が国家間で行われる外交手段の一つであるように、そこで起こったことの認定もまた、一つの外交であるからだ。特に国家が運営に関わる戦争博物館では、その国家が戦争をどのように認定しているのかがわかりやすく可視化される。」P30〜

「「新しい神」や「新しい神話」を、視覚的にわかりやすくプレゼンテーションすることが期待されたのが博物館である。公共ミュージアムは、国家的なアイデンティティを創出することを目的として、世界の近代国家に整備されていった。」P31〜

僕にとって博物館と聞いてまず思い浮かべるところ、やはり東京国立博物館だ。

近代建築としての空間の面白さがきっかけではあったが、内部の各常設展を見て回るだけでもお腹がいっぱいになる充実度。知識が大してなくとも、展示品一つ一つのエネルギーを感じる場だと感じている。

 

ちなみに、戦争博物館は国内だと長崎、海外だとベトナムくらいしか訪れたことがない。これからも積極的に訪れることはなかったと思うが、この本を読んだ今、博物館に対する見方が変わったのは間違いない。

 

 

■世界の戦争博物館、そして日本、そして地方の博物館モドキ

「僕たちは、戦争を知らない。
そこから始めていくしかない。
背伸びして国防の意義を語るのでもなく、安直な創造力を働かせて戦死者たちと自分を同一化するのでもなく、戦争を自分に都合よく解釈し直すのでもない。
戦争を知らずに、平和な場所で生きてきた。
そのことをまず、気負わずに肯定してあげればいい。」P348〜

本の中で、アメリカの戦争記念館に始まり、ヨーロッパ、そして韓国や中国と様々な戦争博物館への訪問体験が綴られており、各施設の印象が全く異なることが面白い。

そして、各国がそれぞれ「あの戦争」をどう捉え、どう国民へ解釈し提示しているのか。あまりにも各国で歴史の捉え方に隔たりを感じるが、しかし次世代への継承という面では、世界中でハコモノでの伝承の限界が垣間見える。

 

日本には博物館は5000以上あるが、いわゆる法にのっとった本物の博物館は決して多くない。博物館モドキが溢れており、各地ではいわゆるまちづくりをする民間組織がそれらモドキの運営に四苦八苦しているのが実情ではないだろうか。

モドキだろうが、その地域にとって「博物館」は地域の歴史や風土、文化を語る重要な場であることは間違いない。どう活かし、どう変化し、どう運営するのか。

 

流行りで作られたハコモノは、理念や思想といった本質的な見直しが問われている時期だ。観光施設として、集客施設として、市民に開かれた施設として、人を集め発信力のあるまちづくりの舞台として可能性があるのが、フットワークの軽そうな博物館モドキではないだろうか。

 

誰も戦争を教えられない (講談社+α文庫)