狛犬の鳴き声

近江八幡のまちづくりに取り組む中で、考えたこと、学んだこと、もやもやを記す内訟録。

アヴァン・ガーデニング

公共空間のリノベーションに、「ガーデニング」は有効か?

1月に参加した、西村佳哲さんの主催する「ひとの居場所をつくるひと・フォーラム」

@奈良県立図書情報館の会場で購入した一冊。

見たことがない言葉とカバーのデザインでジャケ買い

 

VOL 01

VOL 01

 

 

大きく「政治とは何か?」と「アヴァン・ガーデン」の2つのテーマで前半と後半とで構成されています。ビジュアルは少なく、読み物としても重厚感のある雑誌です。

アヴァンガーデンに関する寄稿の中から、気になったテキストをメモ。

 

◆アヴァン・ガーデニング/ピーター・ランボーン・ウィルソン(ハキム・ベイ)

人類はつい最近になってガーデニングに興味を持ち始めたにすぎない。事実、この観念の起源は小アジアや大イランのどこにあるのだろう。ほんの数千年前に、これらの地理用語は発明されたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。その国家は奴隷制と朝貢、債務隷属性、古典的戦争状態、人身御供、そしてその他の進歩と文明による恩恵を伴っていた。人類にとって最初の600万年間、社会は狩猟採集と非独裁的な部族社会的構造から成り立っていた。ここで明確な疑問が生じる。農業は、社会階層と搾取の出現について、ともかくも責任があるのだろうか?社会的なものという観点からしたら、農業は過ちであったのだろうか?

 

猟師たちは窮乏を知ってはいるが、「剰余」に対立するものとしての「不足」は決して知らない。猟師は実際活動的なのだろうが、「仕事」を決して知らない。庭園かと同様に、仕事は農業とともにのみ始まるのだ。あるいは農業は仕事とともに始まるのだ。いずれにせよ、結末は同じである。ファラオ飢饉の7年間、国家所有の穀倉、農奴の誕生。以上のような説明をつけるのが難しい不条理がもたらされるとき、人は、食品工場、放射線照射牛乳、無味な野菜、ホルモン剤使用食肉、すべての生命圏(biosphere)の私有化、そして7年以上にわたる飢饉へと容赦なく突き進むように見える。開発という鉄の法を許容しなければならなくなる。

 

10年、20年のスケールではなく、人類、地球の誕生のスケールでガーデニングという取り組みを分析された内容がおもしろい。

「狩猟採集の縄文文化」と「農耕牧畜の弥生文化」は、建築やデザインにおいても対比的に象徴的に引用される。シンプルで無駄な装飾を削いだ近代のデザインは後者であり、土着的な民家や藤森建築なんかは前者として例えられる。岡本太郎は、縄文土器のデザインに潜むエネルギーについて初めて明らかにしたとされている。

ここでも、農業によって「仕事」が生まれたと捉え、効率や速さを追求する社会に対し批判的な態度を取っている。わたしたちも猟師たちのライフスタイルまで戻ることはできなくとも、自身のライフスタイルを問い直すことは必要なのではないだろうか。

 

「 コミュニティガーデン」というムーブメント

他の寄稿に、NYコミュニティガーデン盛衰史について触れているものもあり、改めてコミュニティガーデンという取り組みが、社会運動として発生し、世界へ伝搬していったということを知った。ヨーロッパでのクリエイティブエディブルの取り組みを近江八幡でも、ということで少しだけ調べたことがあるが、その背後にある近代社会に対する社会運動、ムーブメントであるということを感じた。

 

自然や緑は誰もが好きであり、都市部にいる人ほどライフスタイルに取り入れようとする。都市の未利用地をゲリラ的に活用してしまうことで、結果的に都市景観を改善し、様々な立場の人たちを取り込み、世界中へとムーブメントとして拡散する力がある。

農業はいまでは機械化が進み、生産性と効率を高めた仕事として社会を支えるものでもあるが、間違った方向に進みつつもあるのかもしれない。

 

地域間をつなぐ道空間のリノベーションに、ガーデニングという手法はとりいれられないのだろうか。アヴァンガーデニングというゲリラ的エネルギーが集約できれば、地域の公共空間はもっと魅力的になる。人と人とのつながりが生まれ、育つ場所として受け継がれる場。そんなコミュニティガーデンを自分の関わる地域にもできないかと思います。