新クリエイティブ資本論
これからの50年で、社会はもっと居心地よくなるだろうか
過去の50年、100年の激動から学び、これからの活動のエッセンスにしていくべきです。
昨年末に出版されたリチャード・フロリダの新著。
まだ読んでいないのか!?と指摘され、 いろいろ後回しにせっせと読みました。
とてもボリュームのある一冊。読み終わった火照った頭に浮かんだことは、「クリエイティブ」「クリエイティビティ」という言葉が何回登場したのだろうか。
そんなどうしようもないことを考えてしまうのも仕方ありません。先日、あるイベントで「コミュニティ難民度300%」と書くほど、私の頭の中の整理整頓をしているはずのダルマたちが迷走しております。ゆーこさん曰く、典型的な「ダメ男子」なのだそうだ。
さて、どうでもいいことはここまでで、以下勝手気ままなメモ。
◆序文
クリエイティビティには多様性が必要だ。クリエイティビティには格差を正す大きな力があり、性別や人種、性的指向など、私たちが自分自身を縛りつけてきた社会的なカテゴリーを消滅させることも可能だ。もっとも開放性の高い場所が経済的にもっとも優位に立てることには、そうした理由がある。重要なのはクリエイティブ・クラスがもたらした進歩を制限したり、逆行させたりせず、全面的に後押しすることである。そして、開放性と多様性に満ちた包括的かつクリエイティブな社会—構成員全員の能力をあまねく引き出せる社会—を築くことである。◆第2章 クリエイティブ経済人間のクリエイティビティが日常の経済を決定付けるまでに重要になてきたことで、時代は大きく変化しつつある。クリエイティビティが重視されるようになったのは、新しい技術、新しい産業、新しい富など、経済を牽引するもの全てがクリエイティビティから生じているためである。その結果、私たちの日常の生活や社会では、クリエイティブ精神が問われるようになった。この時代の根底をなす精神は、クリエイティビティの多面性によって形成されている。クリエイティビティには統合する能力が含まれる。アルバート・アインシュタインは自分の仕事を「組み合わせ遊び」と表現したが、それは情報、知覚、材料を取捨選択し、新たに有益な組み合わせを考え出す作業を言い表したものだ。統合はさまざまな点で有用である。なんらかの問題を解決するために実用的な発明を行うことも、理論や洞察を見つけることも、あるいは観賞用の芸術作品を生み出すことも、基本にあるのは統合の働きである。クリエイティビティは多面的で経験的なものである。心理学者のディーン・キース・サイミントンは、「多様な経験や豊かな視点を持つ知識人は、クリエイティビティを好む」と述べている。またクリエイティビティは「さまざまな関心や知識を示す精神と関係している」とも言う。このように、通常それぞれが異なっていると考えるクリエイティビティのさまざまな形態—技術のクリエイティビティ(または発明)、経済のクリエイティビティ(企業家精神)、とりわけ芸術や文化のクリエイティビティ—は、相互に密接に関連している。
「クリエイティブ」の定義だが、これは単なる知識や知性といった受験勉強に必要な情報処理能力のことではないようだ。既存の価値観、体系を領域横断できる能力であり、多彩な経験の上にある能力。そんなクリエイティブ・クラスを、分析結果から社会における新しい階層として提示している。
この研究の分析のなかで、文化の多様性に着目し、人種やゲイなどを指標に上げている点が話題になったようだ。確かに、日本の、特に地方においてはまだまだ閉鎖的な価値観である。近江八幡には海外の人が本当に少ないのも現状である。
多様な趣味、人間関係、価値観
これまでの近江八幡での、自身が関わってきたまちづくりの取り組みについて考えると、本当に多様である。悪く言うとあまり一貫性がないようにも見られてしまうかもしれない。そんな状況に、年度末の報告書をまとめるなか、自分の中では消化しきれないもやもやが明らかになってきてしまい、苦しい状況であった。よそから来た何処の馬の骨とも知らない人間が、果たしていち地域になにができるのだろうか。都市をリノベーションする仕事に関わりたいと思いつつも、ダイレクトに関与する手応えはないまま、時間だけが経過しもう3年が経つのである。
拡散する趣味と個人の活動。止まることのない趣味への探求。建築から古いものへ、石仏石塔、そして登山、マラソンへ。。。
やみくもだが、振り返ると自分にも多様なコミュニティが生まれつつある。この本の中に書かれているクリエイティブな人間像に、少しは共通するものを見出すことができ、読んでいて気分が良いものであった。(あれ、気がつけば自己啓発本になっているのでは。)
クリエイティブなまちづくりへ
さて、ダルマが立て直したところで、まちづくりについて思うこと。
いま、まちづくり会社の安定した収益構造と経営の視点からみると、全国の活動から幾つかの型があることはわかってきた。しかし、まちの50年後の変化を見越して真に何をすべきかという本質的なものは以外と抜け落ちていると感じている。いや、使いまわしのきく言葉で虚飾し、関係者をなんとなく納得させているだけなのだろう。
私たちは台風の目の中にいる。新旧の経済秩序と生活様式が入れ替わって生活が一変する、そんな創造的破壊の時代を生きているのだ。
いま考えないといけないことは、自身のライフスタイルまで解像度を上げて将来について考えないといけないはずである。また、その答えは安直な答えにすがるものではなく、地元の意見、来訪者の要望、まちの歴史的変遷、まちのコンテクストを読み解き、将来の地域住民が納得する答えを探さなければならない。
地域に根をはるまちづくり会社は、とてもクリエイティブで、オーガニックな活動が求めれている。
前よりもすこしだけ、自身の取り組みに胸を張れるようになった気がします。