狛犬の鳴き声

近江八幡のまちづくりに取り組む中で、考えたこと、学んだこと、もやもやを記す内訟録。

不幸じゃないけど幸せでもない、われわれへの「新・幸福論」

「不幸じゃないけど、幸せでもない。」

同世代の人たち、また地域で腰を据えてまちづくりやコミュニティに関わる仕事をしている人たちには、共感できる感覚なのではないだろうか。

コミュニティビジネスに注目が集まるいま、「近現代」という歴史的文脈からその必然性を再確認することができる一冊だと思います。

 

新・幸福論: 「近現代」の次に来るもの (新潮選書)

新・幸福論: 「近現代」の次に来るもの (新潮選書)

 

 

自分と向き合う

先日、ある社会起業家のかたとの意見交換の中で、「読書は自分自身と向き合う時間」と言っていました。私たちの世代は、会議中にわからないことや気になることがあればすぐにスマホやパソコンで調べ、目の前の会話に知識の補完をしながら参加することができます。しかし、相手の顔を見ず、すぐに画面ばかり見る行為、すこし調べただけでわかった気になる感覚が、読書離れを加速しているのではないかと言っていた。

 

わたしの父はサラリーマンであり、典型的な核家族の家庭で育ち、新興住宅地の一軒家で、同世代の友達の多い環境で幼少期を育った。本当に何事もなく18年間過ごし、平和でありきたりな日常だった。町には特に文化財や伝統的な祭りのようなものもなく、封建的な縦社会の経験も、中学時代の部活動の数年間だけで、何事もなく大学を目指す学生生活を送った。

特別裕福なわけでもないが、決して貧しくない。けれども、自分は同じような家庭環境を築けるとあまり思っていない。それは経済的な不安を抱えていることが大きいと思うが、しかし、親世代と同じような人生を送ることが果たして自分にとって夢中になれることなのだろうか。

ほどほどの幸せはあるような気がするが、本当の幸せはどこかに逃げている。現代人の感覚はこんなところにあるのではないだろうか。

この感覚は、自分の今のモヤモヤの一部を言語化したものだと感じた。

 

手応えのない、充足感の薄い成熟社会

書籍の帯カバーの解説文が秀逸である。

◆カバーの解説文
日本はなぜ「幸せでも不幸でもない社会」になってしまったのか?
政治、経済、思想—近現代の先進諸国は常に「目標」を設定し、そこに向かって突き進んできた。到着することができれば、必ず幸福な社会が待っている、と。が、たどり着いたのは、手応えのない、充足感の薄い成熟社会だった。18世紀のヨーロッパ、明治維新後の日本まで遡り、近現代の構造と宿命を解き明かし、歴史の転換を見据える大胆な論考。

戦前から戦後にかけて、日本の人間は町や土着的なコミュニティから分断され、「国民」という個人として振る舞いを求められるようになった。また、労働者や消費者、経営者や芸能人などある種誰もが当てはまれる「交換可能な個人」、つまり「人々」を生み出すことになった。

家族も核家族化が進み、先祖代々の家や土地から切り離され、マンションなど都市生活に対する豊かさのイメージが広まっていった。資本主義を支える経済システム、特に劣化しない価値を保つ「貨幣」によって、経済的な豊かさという絶対的保守主義が人々に加速していった。

 

こうして、戦後的豊かさのイメージは近現代にまで引きずり続けているのだ。しかし、ナポレオンがフランスの栄光というイメージを現実化するために、勝ち続けなければならなかったことを例に挙げているように、経済的豊かさという虚無的な関係を成立させる熱狂は、少しずつ限界に達しているのは誰もが薄々気がついている。もう日本が経済大国として勝ち続けることに限界がきている。有能な歯車を育て、交換可能な個人として労働することに、若い世代の中には二の足を踏む賢い人が現れ始めているのだ。

 

人間の本質は、関係の中にある

本書終盤では、経済合理主義に立ち向かうために、自然や文化、東洋思想に傾倒する、旧来のロマン主義と同じままではいけないと言っている。別に、現実に挫折感を抱いているわけでもないのだが、自己の成長を個人の内面ばかりに向き合うことばかりではいけないのだ。他者との関係性に向き合わなければいけない。ただ漫然と受け身のコミュニティでは、とても狭い価値観と閉鎖的なコミュニティに苦しくなってしまう。

自分自身の成長のために、創造的な活動をするために、新しい関係の創造が必要なのだ。

「コミュニティ」や「つながり」のような、なんとなくぬるい言葉に惑わされることなく、ポジティブに自分の関わる地域をアップデートする、創造的な活動を目指した新しい関係づくりに取り組んでいこうと思う。