狛犬の鳴き声

近江八幡のまちづくりに取り組む中で、考えたこと、学んだこと、もやもやを記す内訟録。

共感する力

カリスマの言葉とプロセス

一人ひとりときちんと向き合い、アイデアを引き出し、スピーディーに行動に移す。

そんな当たり前に聞こえる努力を、辛抱強く実行してきた人の力強い言葉にエネルギーをもらう。

 

 「共感力」「おもてなし精神」

まちづくりに関する多読の一冊としてとりあえず読んでみた。カリスマ経営者が市長に!という副題に惹かれて読んでみたが、内容はとても読みやすく、ふむふむと自分と対話することができた。

 

数々の大企業で経営者を務めてきたカリスマ経営者が市長になってとりくんできた内容と、心がけてきたことが凝縮された一冊。なんといっても、「待機児童ゼロ」を達成させたその実行力には本当に驚くばかりである。その裏側にある姿勢とはとてもシンプルな2つの言葉に集約されている。

 

「おもてなし」と日本人の好きな言葉を取り上げているが、より明確に分解し説明している。

■”おもてなし”に必要な3つの条件
①「人が好きなこと」
→その人に関心を持つことが大前提。
②「勇気を持つこと」
→自分をさらけだすということ。
③「積極性」
→自分から積極的に人とのつながりを持つということ。

つまり、おもてなしとはお客の要望に応えるだけの、単なる受け身のサービスではないのだ。ひとくちに「共感力」といっても、さまざまな領域、立場の人の意見に対して向き合うということは、つまり中にはクレームも当然あろう。しかし、林氏は根気と辛抱強さをもって、下積みのプロセスがあってこそ成功してきており、だからこそのキャリアなのだと感じた。

 

昨日、県内のまちづくり会社の情報交換の会合があった。ある地域のコア施設ともいうべき都市の拠点を基本計画から実現させてきた大先輩ともいうべき人とお話しできる機会があった。お酒も交え、忌憚のない意見交換の中で、彼が「仕事には辛いことの連続だ。でも辛抱し続けないといけないんだ」と力強くエールを送ってくれたことが、より心に深くこだましている。

新クリエイティブ資本論

これからの50年で、社会はもっと居心地よくなるだろうか

過去の50年、100年の激動から学び、これからの活動のエッセンスにしていくべきです。

 

昨年末に出版されたリチャード・フロリダの新著。

まだ読んでいないのか!?と指摘され、 いろいろ後回しにせっせと読みました。

 

とてもボリュームのある一冊。読み終わった火照った頭に浮かんだことは、「クリエイティブ」「クリエイティビティ」という言葉が何回登場したのだろうか。

そんなどうしようもないことを考えてしまうのも仕方ありません。先日、あるイベントで「コミュニティ難民度300%」と書くほど、私の頭の中の整理整頓をしているはずのダルマたちが迷走しております。ゆーこさん曰く、典型的な「ダメ男子」なのだそうだ。

 

さて、どうでもいいことはここまでで、以下勝手気ままなメモ。

 

新 クリエイティブ資本論---才能が経済と都市の主役となる

新 クリエイティブ資本論---才能が経済と都市の主役となる

 

 ◆序文

クリエイティビティには多様性が必要だ。クリエイティビティには格差を正す大きな力があり、性別や人種、性的指向など、私たちが自分自身を縛りつけてきた社会的なカテゴリーを消滅させることも可能だ。もっとも開放性の高い場所が経済的にもっとも優位に立てることには、そうした理由がある。重要なのはクリエイティブ・クラスがもたらした進歩を制限したり、逆行させたりせず、全面的に後押しすることである。そして、開放性と多様性に満ちた包括的かつクリエイティブな社会—構成員全員の能力をあまねく引き出せる社会—を築くことである。
 
◆第2章 クリエイティブ経済
人間のクリエイティビティが日常の経済を決定付けるまでに重要になてきたことで、時代は大きく変化しつつある。クリエイティビティが重視されるようになったのは、新しい技術、新しい産業、新しい富など、経済を牽引するもの全てがクリエイティビティから生じているためである。その結果、私たちの日常の生活や社会では、クリエイティブ精神が問われるようになった。この時代の根底をなす精神は、クリエイティビティの多面性によって形成されている。
 
クリエイティビティには統合する能力が含まれる。アルバート・アインシュタインは自分の仕事を「組み合わせ遊び」と表現したが、それは情報、知覚、材料を取捨選択し、新たに有益な組み合わせを考え出す作業を言い表したものだ。統合はさまざまな点で有用である。なんらかの問題を解決するために実用的な発明を行うことも、理論や洞察を見つけることも、あるいは観賞用の芸術作品を生み出すことも、基本にあるのは統合の働きである。
 
クリエイティビティは多面的で経験的なものである。心理学者のディーン・キース・サイミントンは、「多様な経験や豊かな視点を持つ知識人は、クリエイティビティを好む」と述べている。またクリエイティビティは「さまざまな関心や知識を示す精神と関係している」とも言う。このように、通常それぞれが異なっていると考えるクリエイティビティのさまざまな形態—技術のクリエイティビティ(または発明)、経済のクリエイティビティ(企業家精神)、とりわけ芸術や文化のクリエイティビティ—は、相互に密接に関連している。
 
内発的動機はクリエイティビティの助けとなるが、外発的動機は弊害をもたらす。人は自分の関心や活動の楽しみに従った時の方が、目標を他人に押し付けられた時よりもはるかにクリエイティブな活動ができる」
(ハーバード・ビジネススクール 心理学者テレサ・アマビール)

「クリエイティブ」の定義だが、これは単なる知識や知性といった受験勉強に必要な情報処理能力のことではないようだ。既存の価値観、体系を領域横断できる能力であり、多彩な経験の上にある能力。そんなクリエイティブ・クラスを、分析結果から社会における新しい階層として提示している。

 

この研究の分析のなかで、文化の多様性に着目し、人種やゲイなどを指標に上げている点が話題になったようだ。確かに、日本の、特に地方においてはまだまだ閉鎖的な価値観である。近江八幡には海外の人が本当に少ないのも現状である。

 

多様な趣味、人間関係、価値観

これまでの近江八幡での、自身が関わってきたまちづくりの取り組みについて考えると、本当に多様である。悪く言うとあまり一貫性がないようにも見られてしまうかもしれない。そんな状況に、年度末の報告書をまとめるなか、自分の中では消化しきれないもやもやが明らかになってきてしまい、苦しい状況であった。よそから来た何処の馬の骨とも知らない人間が、果たしていち地域になにができるのだろうか。都市をリノベーションする仕事に関わりたいと思いつつも、ダイレクトに関与する手応えはないまま、時間だけが経過しもう3年が経つのである。

拡散する趣味と個人の活動。止まることのない趣味への探求。建築から古いものへ、石仏石塔、そして登山、マラソンへ。。。

やみくもだが、振り返ると自分にも多様なコミュニティが生まれつつある。この本の中に書かれているクリエイティブな人間像に、少しは共通するものを見出すことができ、読んでいて気分が良いものであった。(あれ、気がつけば自己啓発本になっているのでは。)

 

クリエイティブなまちづくり

さて、ダルマが立て直したところで、まちづくりについて思うこと。

 

いま、まちづくり会社の安定した収益構造と経営の視点からみると、全国の活動から幾つかの型があることはわかってきた。しかし、まちの50年後の変化を見越して真に何をすべきかという本質的なものは以外と抜け落ちていると感じている。いや、使いまわしのきく言葉で虚飾し、関係者をなんとなく納得させているだけなのだろう。

 

私たちは台風の目の中にいる。新旧の経済秩序と生活様式が入れ替わって生活が一変する、そんな創造的破壊の時代を生きているのだ。 

いま考えないといけないことは、自身のライフスタイルまで解像度を上げて将来について考えないといけないはずである。また、その答えは安直な答えにすがるものではなく、地元の意見、来訪者の要望、まちの歴史的変遷、まちのコンテクストを読み解き、将来の地域住民が納得する答えを探さなければならない。

 

地域に根をはるまちづくり会社は、とてもクリエイティブで、オーガニックな活動が求めれている。

前よりもすこしだけ、自身の取り組みに胸を張れるようになった気がします。

minimalism

本当に大切なものはそんなに多くない。

引越しのたびに思うのだが、自分の身の回りにはいらないものがたくさんある。しかしなかなか手放すことはできない。とりあえず次回と先延ばしにしているわけだが、それは自分自身の「幸福」にたいしても先送りしているままなのかもしれない。

 

minimalism 〜30歳からはじめるミニマル・ライフ

minimalism 〜30歳からはじめるミニマル・ライフ

  • 作者: ジョシュア・フィールズ・ミルバーン,ライアン・ニコデマス,吉田俊太郎
  • 出版社/メーカー: フィルムアート社
  • 発売日: 2014/03/25
  • メディア: 単行本
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詩集のような、装丁がとても綺麗な一冊。

副題が消せれば、本棚にディスプレイしてもいいな。

 

内容は、ミニマリズムというライフスタイルについて、ブログに綴った内容を編集し書籍化したようである。彼らの徹底したそぎ落としっぷりはなかなかのものだ。アメリカでもバリバリのビジネスマンだった生活から、いきなり山寺へ禅の修行に出かけたような徹底ぶりだ。


Projects | Minimalist

 

冒頭に、ミニマリズム、シンプルなライフスタイルのすすめがまとめられている。

 

ミニマリズムが役立っていること。
・時間を活用すること
・過剰な所有物を取り除くこと
・生活を楽しむこと
・人生の意味を見出すこと
・いまを生きること
・大切なものだけにフォーカスすること
・情熱(パッション)を追求すること
・幸福を見出すこと
・やりたいと思ったことをやること
・使命(ミッション)を見出すこと
・解放と自由を体験すること
・想像を増し、消費を減らすこと

 

そぎ落とし、何がみえるか?

ミニマリズムには、本当に大切なことだけフォーカスされている。

「健康」「人間関係」「使命(ミッション)」「情熱(パッション)」だ。

 

また、彼らの中には常に「自己の成長」と「他者への貢献」を意識していることがうかがえる。

 

決して自己中心的ではなく、「社会の常識」と感じている自身の主観を見つめ直し、「幸福」という主観的なコンセプトを見つめ直し、自分がいったい隣近所や周辺の地域、または社会全体へなにができるのか。大切なものをいくつかきちんと把握しておくことで、どんな多様な活動にたいしても今を真剣に楽しむことができるのだろう。
 
まずは、自分自身を奮い立たせるパッションについて考えてみたいと思う。
仕事が立て込んで思考がごちゃごちゃしてきたら読み返してみようと思う。

 

住み開き

寝食する場を共有する

大学に入ったばかりの頃、北関東の田舎から関西の辺境へと移り住み、「言葉も文化も違う異国とはこのことか」と思いつつも、本当にたくさんの人たちを6畳間のアパートに呼び飲み会をしたものです。

最大20人近く集まったこともあり、今考えると本当に隣と上の住人には大変申し訳ないことをしていたと反省いたします。

 

なぜ当時、そんなに人を読んで鍋をつついていたのか、正直謎です。

気がつけば毎週課題を提出すると人が集まり、次の日の朝には掃除をしていたなと思います。なんだか文章にしためながら、苦行なのではないかと感じ始めていますが、当時は決してそんなことはなかった。とにかく、いろんな高校から、地域からやってきた人たちの話を聞き、なにかに共感し、笑うあの時間は楽しかった。

 

住み開き―家から始めるコミュニティ

昨日、彦根でのアサダワタルさんのトークイベントに参加してきました。事前に『コミュニティ難民のススメ ― 表現と仕事のハザマにあること ―』を拝見させていただいていたので、もう一冊の著書は会場にて購入。折角なので、サインを頂けばよかったと今更ながら思います。 

住み開き―家から始めるコミュニティ

住み開き―家から始めるコミュニティ

 

 ○「共異体」三浦展

①成員が固定的でなく、束縛されない。
②空間的に束縛されない。
③時間的に限定的である。
④共異体同士は排除し合わず、競争しない。
 
■住み開きからネクストへ
「住むという行為自体を開く」という発想へ。
1日24時間における様々な行為をどのようにオープンソース化し、シェアしていくかであり、その答えは「住み開き」をネクストステージに向かい合わせるプロセスの中に存在することを知った。

 

食寝をする家を開く様々な草の根的な取り組みについて、主に関西を中心にたくさんの事例が紹介されています。それぞれ、特色を持った空間が印象的だが、内容を読むとオーナーの気質、性質が色濃く反映されたコミュニティと空間のほうが魅力的に感じます。

 
この書籍を通じて、改めて著者のアサダさんの広い人脈に驚かされます。音楽からアート、建築、都会から田舎まで領域横断的な関係性の広さと深さを、インタビューの言葉からも感じます。まさに、人脈の多様性から新しい表現が生まれているのだと、トークイベントでも感じました。
 
最後には、家という空間を開くことから、住むという行為を開くということへ展開を提示し締めくくられています。家というのは洋服と同じで、一番大きなコートのようなもので、まさに自分の趣味や性格を表現する一つのファッションでありツールのような空間です。家を開いて未知のコミュニティを求めるというよりも、自分自身どんな新しい可能性、多様性を獲得することができるのか。つながりを求め開くという受け身な感覚というよりも、どんな人と関係性を築いていきたいのか。
 
さて、いまの自分自身は、一体どんなコミュニティを築きたいのだろうかと問われているようだ。誰と深い関係を築くことが心地よいのだろうか。
幼少期を過ごした地元ではないこの地域において、懐かしい話しで盛り上がるようなコミュニティは作れないのはどこか寂しくもある。
 
春が近ずくにつれて、どこか新しいことにチャレンジしたい気持ちになる。

今年はいま生活している大きくて素敵な洋館を活かして、新しいことをはじめたい。バーベキューとダッチオーブンに磨きをかけたいし、木工もしたい。

アヴァン・ガーデニング

公共空間のリノベーションに、「ガーデニング」は有効か?

1月に参加した、西村佳哲さんの主催する「ひとの居場所をつくるひと・フォーラム」

@奈良県立図書情報館の会場で購入した一冊。

見たことがない言葉とカバーのデザインでジャケ買い

 

VOL 01

VOL 01

 

 

大きく「政治とは何か?」と「アヴァン・ガーデン」の2つのテーマで前半と後半とで構成されています。ビジュアルは少なく、読み物としても重厚感のある雑誌です。

アヴァンガーデンに関する寄稿の中から、気になったテキストをメモ。

 

◆アヴァン・ガーデニング/ピーター・ランボーン・ウィルソン(ハキム・ベイ)

人類はつい最近になってガーデニングに興味を持ち始めたにすぎない。事実、この観念の起源は小アジアや大イランのどこにあるのだろう。ほんの数千年前に、これらの地理用語は発明されたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。いわゆる農業革命は、結局のところ最初の真なる国家の勃興をもたらしたのだ。その国家は奴隷制と朝貢、債務隷属性、古典的戦争状態、人身御供、そしてその他の進歩と文明による恩恵を伴っていた。人類にとって最初の600万年間、社会は狩猟採集と非独裁的な部族社会的構造から成り立っていた。ここで明確な疑問が生じる。農業は、社会階層と搾取の出現について、ともかくも責任があるのだろうか?社会的なものという観点からしたら、農業は過ちであったのだろうか?

 

猟師たちは窮乏を知ってはいるが、「剰余」に対立するものとしての「不足」は決して知らない。猟師は実際活動的なのだろうが、「仕事」を決して知らない。庭園かと同様に、仕事は農業とともにのみ始まるのだ。あるいは農業は仕事とともに始まるのだ。いずれにせよ、結末は同じである。ファラオ飢饉の7年間、国家所有の穀倉、農奴の誕生。以上のような説明をつけるのが難しい不条理がもたらされるとき、人は、食品工場、放射線照射牛乳、無味な野菜、ホルモン剤使用食肉、すべての生命圏(biosphere)の私有化、そして7年以上にわたる飢饉へと容赦なく突き進むように見える。開発という鉄の法を許容しなければならなくなる。

 

10年、20年のスケールではなく、人類、地球の誕生のスケールでガーデニングという取り組みを分析された内容がおもしろい。

「狩猟採集の縄文文化」と「農耕牧畜の弥生文化」は、建築やデザインにおいても対比的に象徴的に引用される。シンプルで無駄な装飾を削いだ近代のデザインは後者であり、土着的な民家や藤森建築なんかは前者として例えられる。岡本太郎は、縄文土器のデザインに潜むエネルギーについて初めて明らかにしたとされている。

ここでも、農業によって「仕事」が生まれたと捉え、効率や速さを追求する社会に対し批判的な態度を取っている。わたしたちも猟師たちのライフスタイルまで戻ることはできなくとも、自身のライフスタイルを問い直すことは必要なのではないだろうか。

 

「 コミュニティガーデン」というムーブメント

他の寄稿に、NYコミュニティガーデン盛衰史について触れているものもあり、改めてコミュニティガーデンという取り組みが、社会運動として発生し、世界へ伝搬していったということを知った。ヨーロッパでのクリエイティブエディブルの取り組みを近江八幡でも、ということで少しだけ調べたことがあるが、その背後にある近代社会に対する社会運動、ムーブメントであるということを感じた。

 

自然や緑は誰もが好きであり、都市部にいる人ほどライフスタイルに取り入れようとする。都市の未利用地をゲリラ的に活用してしまうことで、結果的に都市景観を改善し、様々な立場の人たちを取り込み、世界中へとムーブメントとして拡散する力がある。

農業はいまでは機械化が進み、生産性と効率を高めた仕事として社会を支えるものでもあるが、間違った方向に進みつつもあるのかもしれない。

 

地域間をつなぐ道空間のリノベーションに、ガーデニングという手法はとりいれられないのだろうか。アヴァンガーデニングというゲリラ的エネルギーが集約できれば、地域の公共空間はもっと魅力的になる。人と人とのつながりが生まれ、育つ場所として受け継がれる場。そんなコミュニティガーデンを自分の関わる地域にもできないかと思います。